山鹿灯籠
熊本県 山鹿市
P25号
縦803×横606
<山鹿灯籠の起源説> 古事記・日本書紀などによると景行天皇が九州の反抗部族を討伐するために、九州遠征をした折、景行天皇の軍は山鹿の地方でもさまざまな賊を退治したこと記されています。 ご一行は、八代、宇土とめぐって、有明海を渡って島原半島へ行き、そこから再度有明海を渡って、玉名に来て、そこから菊池川を渡って山鹿を目指してまいりました。 山鹿の近くになると、そこは茂賀の浦の沼地が広がり、あたり一面が濃い霧に覆われていて上陸出来る場所が見当たらず、難儀していました。 それを知った山鹿の里人達が松明をかざして天皇ご一行に上陸地を示し、上陸したご一行をさらに東の小高い丘の森に案内し、そこに休んでもらいました。 そこが現在の大宮神社のあるところです。それをきっかけに毎年同じ日に松明をかざしてさらにその松明が、のちになって紙を折って造った灯籠になったと言われています。 <山鹿灯籠の特色> 室町時代から続く、すべてが和紙とのりだけで出来ている、500年余の歴史を持つ伝統的美術工芸品である灯籠であること。 一見豪華にして堅牢に見えますが、材料には木や竹、金属類は一切使われておらず、紙だけで造られています。故に製品の重量も非常に軽いのが特徴です。 山鹿灯籠には、金灯籠の他に、神社、仏閣、城造り、座敷づくりなど、いろとりどりの大型の造り灯籠がありますが、これもまた、すべてが和紙だけで出来ています。 また、女性が主役の祭りであり、神話や温泉にまつり、古い歴史的背景を有するお祭りであります。温泉と灯籠が結びついた、山鹿ならではのお祭りと言えるでしょう。 <戦後の山鹿灯籠> 江戸時代から昭和のはじめ、太平洋戦争が始まる頃までの灯籠祭りは、たいへんな賑わいを見せました。 町中の道路・小路は、どこも人出であふれており、旅館や料理店からは、小太鼓や三味線の音にあわせて、芸者衆のなめかしい歌声が、あちらこちらから聞こえてきたといます。 城造り・宮造り・屋敷造りなど、大型の作り灯籠は灯籠台に乗せて各街角に展示されます。 そして8月16日午後2時からあがり灯籠が始まります。街角で灯籠台に飾られていたさまざまな灯籠を、はっぴを着た各町内会男衆によって担ぎあげられ、「はーいとうろう」「はーいとうろう」のかけ声とともに、大宮神社に運ばれます。この行事を「上がり灯籠」と呼ばれています。 この上がり灯籠が山鹿灯籠のメインイベントでした。灯籠祭りは「夜明かし祭り」と呼ばれ、山鹿灯籠祭りに来た人は、その後3年間は眠いなどと言われました。 戦争が終わった昭和21年にはいち早く灯籠の製作が開始され、山鹿灯籠祭りが再開されました。 さらに昭和29年頃から、それまでは棚の上に載せて灯りを点して飾られていた金灯籠を、踊る踊り子の頭に載せる事が考えられました。 また、昭和30年頃には灯籠祭にさらに花を添える「山鹿灯籠千人踊り」が始まりました。山鹿にふさわしい「よへほ節」や「山鹿灯籠盆踊り」などの歌に、踊りの振り付けもすすめられました。 踊る女性の頭に載せる金灯籠にどのようにして灯りをともすかが、大きな問題となっていました。 先に述べたように紙で出来ているので、ロウソクを点すわけにもいきません。 しかし、小型の万年筆タイプの懐中電灯が普及するとそれらを改良し、金灯籠に取り付けることに成功しました。ほんのりとしたペンライトの灯りは、ぼんやりと幻想的な雰囲気が漂います。 山鹿灯籠保存会の女性たちによる灯籠踊りは灯籠祭りの始まる8月15日午後5時ごろ、大宮神社広場での奉納踊りからはじまります。 その後、町の大通には頭に金灯籠を載せた各町内の婦人会の女性たちや、地方から来た有志の人たちが音楽にあわせて流しの灯籠踊りを踊りながら、街中をゆっくりと進みます。 ちなみに山鹿灯籠保存会の女性はすべて未婚の女性達で構成され、浴衣も淡いピンク色の生地で統一されています。 <千人灯籠> 8月16日午後8時頃から、大宮神社の裏にある山鹿小学校のグラウンドで「山鹿灯籠千人踊り」が始まります。グラウンド中央には舞台が建てられ、そのまわりに金灯籠を載せた千人にのぼる浴衣がけの女性たちが十重の丸い輪を作って踊ります。金灯籠から揺れるほのかな淡い光はまさに幻想的です。 千人灯籠を見た人たちはすべて感銘を受けたといいます。
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