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城下町秋田の誕生 秋田市の歴史は、慶長七年(1607)佐竹義宣が水戸五5万4千石から秋田に国替えを命じられてから始まったといってよいでしょう。当時の秋田市は出羽秋田郡なら山・程野・川尻の三村で成り立っていました。中でも竿灯の行われる旭北・旭南地区は川尻村と言い、中心集落は大町2丁目あたりだったといわれています。 秋田入りした義宣は、西北に旭川、南に太平川、東には長沼(秋田駅一帯)や赤沼などの大湿地帯に囲まれて天然の防御ラインを構え、また土崎港に近く雄物川の水運を利用できて産業開発にも適しているとして、久保田明神山(千秋公園)に城を築き、久保田城と名付けました。 |
| 竿灯紀元の諸説 ねぶり流しの行事である竿灯は、いつごろどのようにして生まれたのでしょうか。その起源についてはいろいろの説があります。これらの諸説をあげると、 1・大町の親方衆が出入りの米屋に行わせたのが始まりで、そのころは提灯ではなく桟俵 2・京都、大阪方面から移入した。 3・佐竹氏が秋田に遷封される以前からあった。 4、佐竹氏が常陸から持ち込んだ。 5・、佐竹のある家老が、寺の境内で子供たちが笹竹に万灯をつるして遊んでいるのを見、これをヒントを得て各町に作らせた。 というようにいろいろありますが、すべて推測の域を出ません。 現在残っている最も古い記録では、天明九年(1789年)津村淙庵の紀行文「雪の降る道」に、「文月六日はこの国ぶりにて、ねぶりながしとかやいひて、ながき竿を十もぢにかまへたるに、ともし火あまたかけつつ、ささげもちて、太鼓うちつづけ、町へくだりもてあるく、ともしびのかず二丁三丁にをよべり・・・・」とあります。 また文化元年(1804年)に記された、「風俗問状答」に竿灯のことが書かれていますが、それよりどれくらい前に行われていたのか、またどんな目的でどのようにして誕生したのかつまびらかではありません。 |
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文化・文政のころの竿灯は額や腰などにのせる芸当はやらず、大力のものが手に持って街を練り歩いたもので、時代の推移とともにさまざまものが取り入れられ、現在のような技が考え出されました。ですが、この技を身につけるまでにはかなりの練習を積まなければならず、この練習に高価な提灯を使ったのではもったいない。 そこで考え出したのが米俵の蓋にする桟俵を用いるようになったもので、昭和30年代ころまでは竿灯まつりが近づくと提灯の代わりに桟俵をつるして毎日練習をしていました。 |
| 近年米の入れ物もビニール袋等に代わり、桟俵を下げての練習風景は見られなくなりました。竿灯の始めは桟俵を下げていましたが、後に提灯に代わったという説も、こうした事から考えついた憶説と思われます。 |
| 力自慢から技自慢へ 竿灯まつりは、数多い祭の中でも際立った特色を持っています。それは単なるパレードや踊りや儀式ではなく、力と技術、バランスの妙を競う技の祭典なのです。 暑い8月の初め、200本を超える竿灯と3,000人に及ぶ演技者が、竿灯大通りに集まり、笛、太鼓の囃子のリズムに乗って、見事な技を繰り広げます。稲穂のように揺れるその竿灯は豊かな収穫への祈りであります。 竿灯は夜の行事であり、竿灯の美しさは提灯に灯る蝋燭の明かりにあります。大若、中若46個、小若・幼若24個の提灯に灯りが入り、合わせて1万個の提灯にともる蝋燭の明かりは夏の夜空を彩り、優雅にして華麗な燈火の美を夜空に描いてくれます。 |
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豊年眠り流し 竿灯は豊作を祈る庶民の願望から生まれたもので、提灯は米俵をかたどり、この提灯の揺れるさまは風にそよぐ稲穂をあらわ現すと言い伝えられています。竿灯は農村ではなく、商人、職人の町である久保田の城下町に生まれました。 なぜこうした豊年を祈る行事が農民でなく商人、職人の間に生まれたのでしょうか、当時は農民に限らず武士であれ町人であれ稲作と関係なしに生きていくことはできませんでした。 |
| 宝暦の飢饉は五年連続(1753年〜57年)の大凶作で餓死者は 3万2千人に達し、天明の卯年飢饉は4年続き(1783年〜86年)で百姓一揆も多発し、天保年間におけるように世に言う巳年のけかち(飢饉)は6年間(1831年〜36年)に亙っての大凶作で、秋田藩の人口40万人のうち餓死者は5万2千人を超え、その惨状は目を覆うものがありました。 |
| こうした不作続きのため雄物川を利用して川下げされる年貢米や、売米が激減し、仲仕の仕事も半減して、深刻な不景気に見舞われるといった状況でした。 だから豊年を祈りこれを祝う気持ちは、それが武士であれ町人であれ農民となんら異なることはなかったのでしょう。 このように竿灯は、豊年を祈るという庶民の願望が古くから伝わる眠り流しの行事と結びついたものと思われ、また半面においては古くから伝わる眠り流しの行事を、大人のレクレーションとして行事に変えたものであり、眠り流しの行事の余興として生まれ、これを町方風に変形させ発展してきたもので、その余興がいつしか本物となり本物の名称をもたらすに至ったと考えられます。 |
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