祗園祭
京都府 京都市
P15号
縦652×横500
<疫病> 平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。 祇園祭の創始については未だ定説をみません。資料にそれが登場するのは、それから1世紀も後の事であり、「二十二社註式」は天禄元年(西暦970)といい、鎌倉末期に編まれた「社家条々記録」は、天延2年(西暦974)に始まると記されています。ここでも2説あり、いずれとも決めがたいですが、疫病流行に応じて推移した祇園御霊会が、この時期に恒例の祇園祭として成立したものと考えられます。 <山鉾の登場> 山や鉾が祇園祭に初めて姿を現すのは元亨元年(西暦1321)のことで、花園院の御所における公家の負熊(まけわざ)として行われたものでありますが、祇園祭の「鉾衆」を模倣した渡物で、「風流」と呼ばれ、前庭を練り歩いたあと、鼓などで「舞曲」をみせたと記されています。 この風流は風流拍子物、すなわち風流に特色を現す意味であり、拍子物その集団を「鉾衆」と言います。鉾衆とは鉾に風流を表した拍子物の集団と見てよいと思います。 常の如しとありますから、鉾衆は祇園祭に以前から行われ、模倣に値する人気のある渡物となっていたことが知られます。祇園祭はこのように鉾衆など風流の賑わいがしだいに増し、暦応3年(西暦1340)には「鉾以下似ての外結興」、「近年此の如き結興之れ無し」と鉾をはじめとする渡物で近年にない盛況をみせるに至りました。 <町衆の心意気> 明応の再興から山鉾はその基本形態を固めて行きました。 その後、宝永5年(西暦1708)、天明8年(西暦1788)、元治元年(西暦1868)と京都は大火に見舞われ、山鉾も大きな被害を被りました。しかし、山鉾はその都度よみがえり、往事をしのぐ豪華さを備えていきます。 山鉾にかける町衆の熱意は衰える事がなく、被災を飛躍につなぐ勢いを失う事がなかったのです。 祇園祭は京都の八坂神社の祭りで京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)の一つで、日本三大祭りの一つに数えられ、また、飛彈の高山祭、秩父の夜祭りと並んで日本三大美祭及び日本三大曳き山の一つに数えられる。7月を通じて行われる長い祭りでありますが、山鉾巡行や宵山が中心とります。宵山、宵々山には旧家や老舗での宝物の展示も行われるため屏風祭の異名もあります。 尚、山鉾が今に見られるような形になり、豪華な飾りをつけるようになったのは、桃山時代から江戸時代にかけて貿易が盛んになり、町衆の繁栄により舶来のタペストリーや国産で最高級の西陣織などが競って用いられるようになってからです。 <国の文化財> 祭りのクライマックスは17日に行われる32基の山鉾巡行で、これらの山鉾は32基中29基が昭和37年5月23日重要有形民俗文化財に指定されています。いずれも美しいタペストリー、西陣織などの美術品で飾られた豪華なもので、山鉾行事は昭和54年2月3日文化財保護法により、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
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