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| 観音祭と浅草祭 昔の祭りは3月17日、18日の両日に行われ、丑、卯、巳、未、酉、亥の一年おきが本祭で、正和元年(1312)から三社の神話に基づき船祭が始められたと云われています。 江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置し、びんざさら舞も堂前の舞台で行われたように、浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれました。 |
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| 昔の氏子は観音の縁日にちなみ十八ヶ町あり、南から諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、田原町、東仲町、並木町、茶屋町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、浅草町、聖天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、田町がそれでした。このうち材木、花川戸、聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも千束郷とも云いました。 |
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祭礼は今のように本社神輿をかつぎ廻ることよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、各町がおのおのの趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合ったようであります。この様に昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町にまで及ぶ広範囲のものでした。 |
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祭礼当日の早朝、山車を中心とする祭礼行列は浅草見附の御門外に集合し、御蔵前から諏訪町、並木町と並んで仲見世から境内に入り、観音堂に安置された神輿の前に参詣の上、おのおのの芸能を演じ、随身門(二天門)を出て自分の町へ帰りました。 これが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂からおろし、一の宮を先頭に浅草御門の乗船場までかつぎ、待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿をのせ、浅草川(隅田川)を漕ぎあがって駒形から上陸し、本堂にかつぎ帰ったと云われています。 |
| この船祭は江戸末期まで続きました。明治に入って廃絶し、明治五年から五月十七日、十八日の両日に祭礼を行い、現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになりました。 |
| 今の祭礼 氏子の四十四ヶ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されていますが、交通事情や各町の情勢変化で慣例通りの5月17、18両日の大祭執行が不可能となり、昭和38年から17,18日に近い金曜日に神輿神霊入れ、土曜に氏子各町連合渡御、第三日曜日に本社神輿の各町渡御を行い、例大祭式典、びんざさら舞奉納などもそれに伴い日程が動くようになりました。現在の祭礼は三日間で毎年約150万人の人出が見込まれています。 |
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| 浅草寺と三社のいわれ 浅草寺(せんそうじ)縁起によると、今から1360年程昔、隅田川で漁労に精を出していた桧前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)の2兄弟が魚網の中から1像を持ち帰り、土地の文化人である土師真仲知(はじまなかち)に一見を請うた処、土師はこれは尊い聖観音像」であり、自分も帰依する所の深い仏像であると二人のものにその功徳を淳々と説き、自邸に堂舎を構えて寺とし、三人共々厚く聖観音像をお祀りするようになったと云われています。 これが浅草寺の起源であり、後世この三人が浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ祭祀されるようになりました。それは権現思想(仏が神の姿をかりてあらわれる神仏同体説)の流行しだした平安末期(約700年前)だろうと云われています。 |
| その後、明治6年三社権現の名称は廃され、現在は浅草神社(あさくさじんじゃ)と呼ばれています。 その大祭の神興渡御(じんよとぎょ)は江戸第一の荒祭りとして浅草人の血を湧かせ、その賑わいは府外随一として全国に喧伝されました。 |
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| また現在の社殿は徳川三代将軍家光が慶安二年(1649)に建立寄進した、江戸初期の代表的権現造り建築で、幾多の災害を逃れ、国の重要文化財に指定され、昭和三十八年と平成八年に多額の国費の補助を受け建立当時の姿に修復されました。 | ||